2500年の歴史を通じて、一貫して変わらない仏教の精神が、現代社会の新たな動向を指導する理念になるとすれば、私は「いのち」の哲学ではないかと思っています。
「見えるいのち」と「見えないいのち」があり、「見えるいのち」とはお医者さんに見てもらえる命で、すべての動植物の生きている状態も「いのち」なのです。生きていることは目で確かめられるから、生物学的、医学的、科学的な「命」と言っても良いでしょう。
「見えないいのち」とは、例えば「永遠の生命」という場合です。この場合の「いのち」は、寿命が尽きて死んでしまったというのとは違います。
「見えるいのち」をして「いのち」たらしめているもの、根源的なものが何かあるんじゃないか、ということを考えることができます。今は見えないけれども、宇宙生成の始まりから何かある。
その何かあるものがあって、そこに地球が誕生し、地球上に形のある命が生まれ、動植物がまとめてできた。そういう生命の発展を支えているものがあるんではないか。
それを私は「見えないいのち」と呼びます。
浄土宗宗務総長 水谷幸正師
リレー講座「現代社会と宗教」(立命館大学主催・読売新聞大阪本社後援)