だるま倶楽部の名前はどこから来たのですか②

達磨大師が中国に渡ってまもなく

梁の武帝に招かれたときの問答は有名です

武帝: 朕は即位以来、寺院を建てたり、仏像を造ったり、経を写したり、

     僧を供養したりしたことは、数え切れないがどんな功徳があるのか

達磨: 無功徳

武帝: これだけ仏教のためにつくしてきたのに、なぜ功徳がないのだ

達磨: それは凡夫の小果であり、有漏の因に過ぎない

武帝: では、真の功徳とはなんだ

達磨: 浄智妙円、体自ずから空寂

武帝は質問を変えます

武帝: では聖諦第一主義とはどういうものか

達磨: 廓然無聖

武帝: それなら、朕に対しているものは誰だ

達磨:不識

この問答は、禅の発想を極めつくした問答といえます


武帝が得意になって達磨大師に問いかけたことは、

世俗の宝珠のことであり、達磨大師だ静寂のうちに答えたのは

仏法の偉大なる知恵の宝珠についてだったのです

「無聖」といことは

聖ということはないのだということですが

聖がなければ凡もないわけです

仏教の十界説で言えば、「六凡四聖」といいます

地獄から天上界までの六界を凡といい

声聞から佛界までの四界を聖といいます

一般に聖と凡と二つをいうとき

聖と凡とは相対概念ですので

一方のない時は、他方もないことになります

このことは、美醜、善悪、貴賎などの考えと同じです

あくまで相対そのものの観念です

一方が成り立たなければ、対する方も成り立たないわけです

この対立の概念は、人間のものさしです

人間はこのものさしの故に苦労するのです

でもやめるわけにはいかないのです

人間であるが故にです

人間だからそういうふうに苦労するのです

だから宗教は相対の観念を超えて

価値判断のない世界を説いてます

値段表のつかない世界をいうのです

「廓然無聖」ということは

人間の価値判断は妄想だということを言っているのです

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