達磨大師が中国に渡ってまもなく
梁の武帝に招かれたときの問答は有名です
武帝: 朕は即位以来、寺院を建てたり、仏像を造ったり、経を写したり、
僧を供養したりしたことは、数え切れないがどんな功徳があるのか
達磨: 無功徳
武帝: これだけ仏教のためにつくしてきたのに、なぜ功徳がないのだ
達磨: それは凡夫の小果であり、有漏の因に過ぎない
武帝: では、真の功徳とはなんだ
達磨: 浄智妙円、体自ずから空寂
武帝は質問を変えます
武帝: では聖諦第一主義とはどういうものか
達磨: 廓然無聖
武帝: それなら、朕に対しているものは誰だ
達磨:不識
この問答は、禅の発想を極めつくした問答といえます
武帝が得意になって達磨大師に問いかけたことは、
世俗の宝珠のことであり、達磨大師だ静寂のうちに答えたのは
仏法の偉大なる知恵の宝珠についてだったのです
「無聖」といことは
聖ということはないのだということですが
聖がなければ凡もないわけです
仏教の十界説で言えば、「六凡四聖」といいます
地獄から天上界までの六界を凡といい
声聞から佛界までの四界を聖といいます
一般に聖と凡と二つをいうとき
聖と凡とは相対概念ですので
一方のない時は、他方もないことになります
このことは、美醜、善悪、貴賎などの考えと同じです
あくまで相対そのものの観念です
一方が成り立たなければ、対する方も成り立たないわけです
この対立の概念は、人間のものさしです
人間はこのものさしの故に苦労するのです
でもやめるわけにはいかないのです
人間であるが故にです
人間だからそういうふうに苦労するのです
だから宗教は相対の観念を超えて
価値判断のない世界を説いてます
値段表のつかない世界をいうのです
「廓然無聖」ということは
人間の価値判断は妄想だということを言っているのです