「アジアの時代」を仏教中心に観てみる

アジアには、いろいろな宗教がある。まるで比較宗教学の博覧会のようだ。マレーシアはその代表的存在。仏教・ヒンドゥ教・キリスト教・イスラム教すべて揃っている。

タイとミャンマーは、小乗仏教だ。ブルネイに入ると、すっかりイスラム教徒である。インドはもちろんヒンドゥ教徒が多いし、ネパールはヒンドゥ教と大乗仏教(ラマ教)である。
新しく見えても年代ものなのだ

人類史の中でも、過去一千年間ほどは、人類が全体として、宗教というものに熱心だった時代である。人類は、その間に、おびただしい数の宗教的施設をつくり、残している。

いろいろな宗教のお寺のなかには、かなり古い時代にできたものもある。それなのに不思議なことに、つい最近に建ったばかりのように、あざやかな極彩色。まるで最近流行のアミューズメントパークのように色とりどり。眩しいばかりか、本当にネオンを組み込んでしまっていたりする。
聞いてみると、古くなって、よごれてしまったから、最近に塗り替えたのだという。せっかく時代色がついているのに…。われわれ日本人の眼からは、塗り替えないままの建物のほうが、はるかに崇高に見える。

ちょっと違った美的感覚

宗教はいろいろだけれど、同じようなことは、アジアにはいくつもみられる。ミャンマーの首都ヤンゴンには、パゴダ(仏塔)が数多くのこっていて、すぱらしい史跡であるが、その中のかなりのものは、完全に修復されて、金色にぬりたてられ、できたばかりのような外観になっている。もちろん、寺はたくさんの人々がお参りしている。寺院内に近代的なエスカレーターだってあることはすでに紹介した。
やはりミャンマーのことだが、ペグーの近くで十九世紀末に、ジャングルの中に妙な形の小山がみつかった。掘ってみると、これが、十世紀につくられた巨大な釈迦の寝姿だということがわかったそうだ。これも今では完璧に修復されて、ツルンとした顔の、とてもきれいなお釈迦さまの像が、鉄骨の屋根の下に横たわっている。わたしたちの宗教的感覚からすれば、あまりにもなまなましすぎて、ついてゆけない気がする。
日本なら寺院などは、「大和古寺探訪」よろしく古びたほうありがた味があるてなもんである。アジアの国々では、古くなったら「みじめ」で、上に絵の具をぬる。しかもコテコテのペンキで塗り重ねていく。これらの国のひとびとの、美的感覚はいったいどうなってるんだろうと頭をひねってしまう。

生きている宗教

どうやら、われわれ日本人にとって、宗教は歴史的・芸術的存在となっていたのかもしれない。

これらアジアの国の人々にとっては、宗教は現在なのだ。だから、寺は、神は、仏は、つねに生きているのである。それは、くりかえし「再生」し、常に新しくなけれぱならないのだ。このように考えると、彼等においてこそ、「宗教はほんとうに生きている」と言えるのかもしれない。

崩れかけたパゴダ(仏塔)に美をみつけて喜ぶようなわれわれは、宗教的感動と美的享楽とを混同してはいないだろうか。まさに「博物館」と「博覧会」の違いと言えないだろうか。

日本の場合についていえぱ、伊勢神宮の二十年ごとに、あたらしく建て直される「ご遷宮」は、このことと関係があるのではないか。伊勢の神は生きているのである。生きている神の住まいは、つねに新しくなけれぱいけない。それは、「苔むして」はいけないのだ。

最近、周辺の寺院の新築が盛んで、そこに「活気」や「元気」が感じられるのは、この予感からかも知れないと思っている。

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