私が、いまここにいることが、摩詞不思議です。広い地球の、広い日本の、広
い三重県のここに、人のいのちを享(う)けて、いまを生きています。この
父、この母を縁にして生まれてきました。この父が別人だったら、この母と夫
婦の契りがなかったら、私は永遠に生まれてくることはありませんでした。こ
の不思議としかいいようのない因縁(いんねん)は、親と子という二世代だけ
のものではなく、無始以来の先祖まで遡っていきます。
報恩講に拝読する『式文(しきもん)』の中に「盲亀浮木(もうきふぼく)」
のたとえ話があります。いつも大海の底にいて、百年に一回海面にあがってく
るという盲目の亀がおりました。その浮き上がってきた時にたまたま穴のあい
た浮き木にぶっかって、その穴に亀の首がはまったという話です。人間に生ま
れてくること、ほとけの教えに会うということは、これほどの出来事だという
たとえです。実際こんなチャンスがあるでしょうか。ありえないということが
あったという話です。その証拠が、いまここに生きている私であると教えられ
ています。
『法句経(ほっくきょう)』に
人の生をうくるはかたく
やがて死すべきものの
いまいのちあるはありがたし
という聖語があります。
再び生まれてくることのない私、一回きりの命を「どう生きるのが本当か」
がわからなくては、永劫(ようごう)に迷っていかねばなりませんと、親鸞聖人
はお念仏の教えを生涯説いていかれました。
(真宗高田派本山布教伝導委員)