憲法十七条の第二条に「篤(あつく)く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」とあります。聖徳太子は三宝を敬うことによって、みんなが平和に生きる世界、仏教国をめざしたのでした。
太子の仏教に対する功績としては、四天王寺や法隆寺などを建立されたことと、もうひとつは勝鬘経(しょうまんきょう)と法華経を講経され維摩経(ゆいまきょう)を加えた注釈書、三経義疏(さんぎょうぎしょ) を書かれたことは特筆すべきことです。
太子が政治的に活躍したのは二十八歳から三十九歳ごろまでです。三経義疏を書かれたのは、三十六歳から四十二歳までの間であると伝えられています。太子は四十九歳で亡くなりますが、晩年は法隆寺の夢殿にこもり、この三経義疏の著述に没頭したと言われています。
最澄が法華経を中心とする日本天台宗を開宗したのも、太子の思想を受け継ごうとしたものでした。