松阪が生んだ偉大な国学者、本居宣長。
JR松阪駅から徒歩10分程のところに、宣長を始めとする本居家の菩提寺があります。
こちらが樹敬寺です。
本居宣長にはお墓が2つあり、1つは山室町にある奥墓(おくつき)と言われているところで、こちらは宣長個人のお墓です。
樹敬寺は一族の菩提寺であり、宣長夫妻、長男・春庭夫妻の墓のほか、合わせて26基の宣長の祖先の小津家や子孫のたちのお墓があります。
樹敬寺
建久6年(1195)、俊乗坊重源上人により開かれたお寺で、宗派は浄土宗、知恩院の末寺にあたります。
重源上人は、源平の争乱で焼失した東大寺を再興した僧侶です。
天正6年(1588)蒲生氏郷の松坂城下建設に伴い、松ヶ島城下より松阪市新町の地に移りました。
新町通りに面して門がありますので、とても分かりやすいお寺です。
徳川家の三つ葉葵の家紋が入った立派な門です。
江戸時代、松阪は紀州藩の領地でありました。
樹敬寺には紀州徳川家の歴代藩主の御位牌がまつられていることにより、門に三つ葉葵の紋が入っているのです。
門から石畳に沿って歩いていくと本堂があります。
境内はとても広く、昔は8つもの塔頭がありました。
現在は塔頭跡に看板が立てられています。
本居家の墓は、小道を挟んだ墓地の一角にあります。
本居宣長
国学者であり、医師でもあった宣長は、享保15年(1730)に木綿商人であった小津家に生まれました。
8代将軍徳川吉宗の時代です。
商人には向いておらず、23歳で上京し医学を学び、この頃より古典の研究を行うようになり、宝暦7年(1757)、28歳で松阪に戻り医師を開業すると、自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究を始めました。
宣長の代名詞と言えば『古事記伝』ですが、35歳から34年をかけて完成させたものです。(なお、年齢は数え年です。)
鈴を愛したことでも知られ、宣長の自宅2階の書斎は『鈴屋』と呼ばれました。
現在、宣長の旧宅は松坂城址に移築されており、鈴屋への立ち入りは出来ませんが、旧宅の一部は見学することができます。
松阪市内には、樹敬寺のほかにも宣長に縁のある場所がたくさんありますので、それらの場所をめぐるのも楽しいかもしれません。
また、本居宣長の子孫には、「七つの子」や「赤い靴」など、童謡の作曲家として有名な本居長世がいます。
長世は宣長の養子である大平の子孫なので直系ではありませんが、国学者として多大な成果を残した宣長と、後世に残る歌を多数生み出した作曲家が同じ一族というのは、松阪の誇りではないでしょうか。